2008年 12月 09日 ( 1 )

ライプニッツのピラミッド

「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒し、これに不共可能性の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れるが、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が選んだ世界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ライプニッツによれば*『アストレー』のような小説だけが、われわれにこのような不共可能的**なものの理念を与えるのである。」(ドゥルーズ『襞 ライプニッツとバロック』邦訳p110)

*(Lettre a Bourguet,decembre 1714)
**または「共不可能的(incompossible)」
≪compossible-incompossible≫
『差異と反復』:共可能-非共可能
『意味の論理学』(宇波):共通可能-共通不可能 および両立可能-両立不可能
小沢訳:共存可能-非共存可能

オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』は17世紀パリの貴婦人に流行ったロマン小説で、日本では無名だが、今度エリック・ロメールによって(小説の一部が)映画化され2009年に公開される。

ストーリーは映画の公式サイトに詳しい。
http://www.alcine-terran.com/wagaai/trailer.html
(公式サイト予告編)

可能世界なるものがデカルトのような推論によって本質に回収されるのを嫌ったライプニッツがラブストーリーを念頭においていたというのは面白い。

僕だったら黒澤の『乱』のストーリーを不共可能性を扱った代表作にあげたい。

最近、ライプニッツの論理学信奉と、黒澤とタルコフスキーのような芸術家による論理学不信奉の違いはあっても、『弁神論』のラストで触れられた底辺が無限のピラミッドと『乱』のラストで城跡に逆説的に浮かび上がるピラミッドのような美しさは同じものだったのではないかと考えている。


追記:
以下のようなスタッフの証言が実は不共可能性をうまく説明しているかもしれない。
http://www.unifrance.jp/festival/report_view.php?number=657&langue=JAPANESE
「一番好きなのは、お城の迷宮のような庭園でニンフの女ボスのガラテと僕が口論をするシーンなんだ。このロケ地は最後の最後に見つけた場所なんだが、撮影段階になってロメール監督は素晴らしいアイデアを思い付いたんだ。城を出て行くと言い張る僕を引き止めようとしたガラテは、迷路の壁にぶち当たってしまう。このシーンを撮ることによって監督は、状況が硬直状態に陥り、壁にぶち当たったことと現実の動きをドッキングさせて見せているんだ。」

http://movie.felista.jp/e319.html
「私は原作を完全に自分のものにし、なんの気がねもなくのびのびと扱うことができた。ここではっきりとさせておくが、私の脚本はズカが残した脚本とはかなり異なるものである。今回、私は彼の脚本を一切活用しなかった。あとで読み比べてみて、2作に共通のセリフがたったひとつしかないことを確認してニヤリとしたほどである。とは言え、この作品を彼に捧げることは私には重要だった。」


メモ:
ちなみに、ライプニッツの主要論理原則を、ドゥルーズ『襞 』(邦訳p99)を参照して、カントのカテゴリー論と照合すると以下になる。


量         質 
類似の原理      同一律、矛盾律
結合法則       アルファベット 

関係        様相
十分な理由の    識別不可能原理
原理        モナド1/∞ 
微分積分dy/dx  


追記の追記:
フーリエは『アストレ』からセラドニーCeladonieという概念を抽出し展開している。この造語は精神的ないし感傷的な恋愛情念を意味するらしい。その精神的愛はフーリエの唱える共同体では重要度を増すという。

ところで、フーリエはこの精神的愛を概念化し、官能的愛の次に続くものとして系列的に展開しているが、冒頭で触れた20世紀をハイデガーとともに代表する哲学者のドゥルーズはこうしたフーリエやプルードンの系列的思考法にどれくらい意識的だったのだろうか?

ドゥルーズはマルクスに関しては意識的だったが、いわゆる空想社会主義にはあまり関心がなかったのではないか?
それは当時のフランスの思想界が、マルクスとフロイトにあまりにも支配されていたためでもあるだろう。

フーリエ、プルードン、そしてドゥルーズが採用したアンチノミーが揚棄されずに二項が進行する系列的思考は無意識的なフランス的伝統ということかもしれない。


補記(2009.4.12):
その後映画を見た感想としては、この映画においてロメールはモラルというよりも「私の許可なく二度と姿をみせないで!」という主人公セラドンとアストレーとの相互契約を守りつつ、映画としてはエモーション=肉感的欲望を手放さないという離れ業に挑み、その課題に見事に成功しているのではないか?というものだ。

一見些末なエピソードのように見える登場人物による神々の説明、肉体的愛に対する精神的愛の優位などなど、映画のところどころでロメール先生による間接的授業(とはいえカメラは常に登場人物と水平に位置され、決して権威的ではない)が展開されているが、これらは映画のなかで内容としてのモラルの描写として成功している。

おそらく賛否が分かれるであろう部分は、リアリティーを無視した時代描写および自然描写であり、何よりも女装したセラドンとの和解であるラブシーンを描いたラストだ。場内の失笑とともに観客である自分の胸にわき上がったのは、先述したライプニッツ的なモラル=論理を守りつつジャン・ルノワール的欲望を同時に肯定することに成功したロメールの巧みさへの賛美だ。

蓮実重彦はそこにハワード・ホークス的映画装置の作動、つまり映画の自同律を見出しているようだ。たしかにその装置の作動は形式としてのモラル(この場合は映画の自同律)の展開でもあるが、それ以上にそうした形式を主演俳優同士の官能の描写と背理させなかったロメールの手腕が称揚されるべきであり、そこに彼のデビュー作『獅子座』からの一貫性を見るべきだろう。
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by yojisekimoto | 2008-12-09 19:30 | ライプニッツ