2009年 01月 18日 ( 1 )

ヘーゲル左派とプルードン

マルクスとエンゲルスは『聖家族』(1844)の時代にはまだプルードンを高く評価していました(ちなみに大月版全集第二巻によれば『聖家族』は共著だがプルードンを扱った節のある第四章はマルクスの単独執筆(『聖家族』英語版該当箇所)である)。
それはあくまで青年ヘーゲル派またはヘーゲル左派のグループの観念性を批判することで現実性を持とうとしたマルクスの思惑に利用された形の相対的な評価でしたが、、、

さて、エンゲルスが1842年のベルリンにおけるヘーゲル左派のグループ「自由人(フライエン)」("Die Freien")の人々の集まりを漫画にして描いた絵があります。
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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Skiz-hegel.png
ヘーゲル左派のメンバー・ルーゲやエトガー・バウアー・シュティルナーらがかかれている。エンゲルスによる風刺画。

解説:
1842年のエンゲルスによる戯画。左からアーノルド・ルーゲ*(『独仏年誌』共同編集者)、ルートヴィヒ・ブール*、カールナウ・ヴェルク*、ブルーノ・バウアー*、オット・ヴィーガント(『ハレ年誌』『ドイツ年誌』『唯一者とその所有』『聖家族』『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を出版したライプツィヒの出版業者)、エトガー・バウアー*、マックス・シュティルナー*、エドゥアルド・マイエン(革命失敗後イギリスに亡命したジャーナリスト)、氏名不明の二人、カール・フリードリッヒ・ケッペン(隊長として。神学者だがこの絵では酒を飲んで酔っぱらっている)。ブルーノ・バウアーはマルクスが編集に参加した『ライン新聞』を踏みつけている。*印をつけた人の著作は平凡社『資料ドイツ初期社会主義』で邦訳を読むことができる。
壁には断頭台があり(ちょうどエドガー兄弟の上)、左の隅には一匹のリス(アイヒホルン)が描いてある(このリスはプロイセンの文部大臣ヨハン・アイヒホルン)を風刺したもの。(参照:大月書店『マル=エン全集』第27巻p345,531、または"The New Hegelians: Politics and Philosophy in the Hegelian School "by Douglas Moggach,p138-9 )

参考:青年ヘーゲル派wikipedia、およびthe young hegelians
ヘーゲル左派日本語研究文献目録

エドガー・バウアー(片手を上げた人)はプルードンに批判的な評論を書き、それが『聖家族』ではマルクスたちの再批判にさらされます。

左端のルーゲなどは、右傾化したと批判されます。そのルーゲと闘っているブルーノ・バウアーはエドガーの兄でエンゲルスを無神論に導いたとされる大学講師で、そのユダヤ人論はマルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)で批判されています。

また、シュティルナーのクールな姿が有名ですが(別バージョンあり)、ただし、これらはあくまでエンゲルスとマルクスの側から見た見取り図です。

もし、プルードンを思想的な中心におくとしたなら、

  マルクス(批判)→プルードン←(批判)シュティルナー

というように左右からプルードンが批判されている構図を描くことができるでしょう。

このように、ヘーゲル左派からはじまりプルードンに着目するのは突拍子もないことではありません。
実際、ヘーゲル左派を研究されている石塚正英氏は、「交換銀行論の系譜——プルードン・ヴァイトリング・ゲゼル 」といった発表をされていて、仏、米、独、といった国境を越えたプルードンの系譜に着目されていて、成果が待たれます。
参考:http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/
   http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/g.html

また、佐藤優氏は『私のマルクス』で、ヘーゲル左派の多様性に着目し、スターリン主義、神学、マルクス主義、ユダヤ主義といった要素を読み取っており、ジジェクなどと同様この時期の可能性を掘り起こすことに成功していますが、こちらは残念ながらプルードンへの言及はありません。
参考:http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0709.htm

エドガー・バウアーの描いた「批判的」プルードンとマルクスの理解する「ほんとうの/非批判的/大衆的」プルードンを対比によってマルクスが論じる『聖家族』*は、後の『哲学の貧困』の時期よりもプルードンの本質を描いていると思う。

*追記:
以下のマルクスの言葉をグラムシが何度も引用しているそうだ。

「もしエドガー氏がフランス語の平等を、ほんのしばらくでもドイツ語の自己意識と比べてみるならば、彼は後者の原理とは、前者がフランス語で、つまり政治と思考的直観のことばでいうところを、ドイツ語でつまり抽象的思考のことばであらわしていることがわかるであろう……」
(該当箇所邦訳大月版全集第二巻p36)。<戻る>
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by yojisekimoto | 2009-01-18 21:59 | ヘーゲル