だから、そこでは「揚棄」という語がーー否定と保存(肯定)とが結びついた「揚 棄」という語がーー独自の働きかたをする。 たとえば、ヘーゲルの法哲学を例に取れば、 ☆ 揚棄された私法= 道徳、 倫理◯ 揚棄された道徳=家族、 揚棄された家族=市民社会、 揚棄された市民社会=国家、 揚棄された国家=世界史、 となっている。現実においては私法、道徳、家族、市民社会、国家、等々 は存続しているわけで、ただ、それらが運動の要素にーー孤立して存在するのではな く、たがいに解体し合ったり産出し合ったりする、人間の生存や存在様式の要素 にーーなっているというだけのことだ。 (略) 別の例でいうと、 論理学◯ 有論◯ 揚棄された質=量、 揚棄された量=限度量、 揚棄された限度量= 本質、 揚棄された本質=現象、 揚棄された現象=現実、 概念論◯ 揚棄された現実=概念、 主観◯ 揚棄された概念=客観性、 理念◯ 揚棄された客観性=絶対理念、 揚棄された絶対理念= 自然、 精神◯ 揚棄された自然=主観的精神、 揚棄された主観的精神=共同の客観的精神☆、 絶対精神◯ 揚棄された共同の精神=芸術、 揚棄された芸術=宗教、 揚棄された宗教=絶対知。 一方で、こうした揚棄は思考された存在を揚棄するものだから、思考された私有財 財産は揚棄されて道徳の思考となる。 マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳 光文社文庫194~5頁 ◯は補足 #
by yojisekimoto
| 2013-11-03 15:04
| ヘーゲル
ボロメオの環(カント、ヘーゲル):
____ ____ / \/ \ / /\ \ | | | | | 悟性 |__| 感性 | | /| |\ | \ / \/ \ / \|___/\___|/ | | | 想像力 | \ / \____/ ____ ____ / \/ \ / /\ \ | | | | | 国家 |__| 市民社会| | /| |\ | \ / \/ \ / \|___/\___|/ | | | ネーション | \ / \____/ (柄谷行人『世界共和国へ』175頁より) 「市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれている…」 (左右反転させると、) ちなみに、スピノザは神学を国家で克服しようとする。 エチカ以外では90度回転する。 価格 価値 神学 資本[身体] 国民 [精神]国家 アソシエーション 自由 友愛 平等 [モナドロジー]+(エチカ): 1実体 /\ [神] 系列 (無限) [論理] /_無限定_\ ________/_2a属性__\________ \知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/ \ (悪)/___2b様態\____\(善) / \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ \/ 憎しみ \努力/(愛) \/ /\対象/ /[調和]\ \認識/\ 所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\ / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的 神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然 [動物] \ 4理性 / [魂] [欲求] \[基礎]/ [表象] [精神] \ (徳)/ [多様性] [神の国] \/ [モナド] 5自由 カント、 ヘーゲル、 ラカン、 吉本隆明: ____ ____ / \/ \ / 感性 /\ 悟性 \ |市民社会 ファロス 国家 | |現実界R の享楽| 象徴界S| | 対幻想/| a|\共同幻想| \ /文学\/意味\ / \|_芸術/\___|/ | 想像力 | | ネーション | \ 想像界I / \個人幻想/ (柄谷行人『世界共和国へ』175頁他参照、改変) a=対象a,剰余享楽 (さらに反時計回りに回転させると、) ____ ____ / \/ \ / 悟性 /\ 想像力 \ | 国家 |意味|ネーション| |象徴界S |__|想像界I | |共同幻想/| a|\個人幻想| \ ファロス\/文学\ / \の享楽_/\芸術_|/ | 感性 | | 市民社会 | \ 現実界R / \_対幻想/ (柄谷行人『世界共和国へ』175頁他参照、改変) a=対象a,剰余享楽 通常はネーションが共同幻想になるが、吉本隆明の場合、共同幻想と個人幻想は逆立する。 柄谷行人: _________________ | | | | S | I | | 国家 | ネーション | | B | A | | 共同幻想 | 個人幻想 |平 |________|________| | | |等 | R | | | 資本 |アソシエーション| | C | D X | | 対幻想 | | |________|________| 自 由 『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照、改変。 文学芸術の位置にアソシエーションがあるとも考えられる。aの位置にあると考えても同じことである。 対象a=アソシエーション?とも言える。 最初の図で言えば、カントのような公私の逆転はあり得る。 吉本の欠点はアソシエーションの位置がわかりにくいことだ。 http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120609 http://yokato41.blogspot.jp/2010/12/blog-post_19.html こうなるとむしろ、ラカンで参照すべきなのは四つの言説であろうが…。 ______ / 悟性 /| /_____/想| | |像| | 感性 |力| | | / |_____|/ 上記の図形とその展開図を考えればいい。 補記: 吉本隆明、 ラカン: common, pair, and individual illusions 共同、対、個人幻想 ____ / \ / 個人幻想 \ | | |___ ___| /| 文学\/ |\ / \芸術/\ / \ | \|__|/ | | 対幻想 | | 共同幻想| | | | | \ \/ / \____/\____/ 『共同幻想論』の骨格 吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの http://www.momoti.com/blog2/2008/02/post_143.php http://www.momoti.com/blog2/bw_uploads/tm_08013103_1.jpg ラカンで言えば以下、 ____ / \ / 想像界 \ | I | |___ ___| /| 女の\/ 意味|\ / \悦楽/\ / \ | \|_a|/ | | 現実界 |ファロス 象徴界| | R の悦楽| S | \ \/ / \____/\____/ a=対象a,剰余享楽 ____ / \ / 現実界 \ | | |___ ___| /| \/ |\ / \ /\ / \ | \|__|/ | | 想像界 | | 象徴界 | | | | | \ \/ / \____/\____/ 共同、対、個人幻想の訳語は以下を参照。 common, pair, and individual illusions http://ci.nii.ac.jp/naid/110006865306 以下の書籍では幻想にimageの訳語を採用している(異論もある。特にフーコーに 渡した翻訳文は訳語に問題があったとされる)。 The Critique of the Virtual Shifting Discrusive Space in Japanese Literature ... - Koichi Haga - http://books.google.co.jp/books?id=Hit0_9wIgjMC 図解に関しては、以下の書籍の評価が高い。 http://www.amazon.co.jp//dp/4907221002/ 吉本隆明『共同幻想論』の読み方 (テツガクのなる木) [単行本(ソフトカバー)] 宇田亮一 (著) #
by yojisekimoto
| 2013-10-28 11:48
| 柄谷行人
モナドロジー図解:
1/∞ 論 反 精 魂 表 モ 理 省 神 象 ナ ← ド ↓ 〜調和〜 神 身 動 欲 の 神 体 物 求 国 ∞/1 (エチカ)+[モナドロジー]: 1実体 [神] /\ [論理] (無限) /_無限定_\ ________/_2a属性__\________ \知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/ \ (悪)/___2b様態\____\(善) / \(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/ \/ 憎しみ \努力/(愛) \/ /\対象/ /[調和]\ \認識/\ 所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\ / 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的 神/______\___\/_第三種認識____\自然 [動物] \ 4理性 / [魂] [欲求] \[基礎]/ [表象] \_徳_/ [神の国] \/ [モナド] 5自由 モナド 1~20 表象 14~28 完全性18、41、48、52、90 欲求 15、19、48、79 魂 19、61~83 精神 29 反省 30 論理 31~46 無限 36、41 神 38~60 受動、 能動 49、52 襞 61 身体 62 宇宙 62 有機的63~71、78 動物 14、21、66~75 調和 78、86 善悪 90 愛 90 神の国85~90 モナドロジー ライプニッツ (インデックス、〜とエチカ、リンク:::::::::) http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/monadologie.html (72~83/90 http://zinbun.denpark.net/1018208029.html) 1. これから論じられるモナドとは、複合的なものに含まれている単純実体に他ならない。単純とは、部分がないということである。 2. 複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは単純なものの集り、つまり集合体に他ならないからである。 3. ところで、部分がないところには、広がりも、形も、分割の可能性もあり得ない。それで、こうしたモナドは自然の真のアトムであり、一言でいえば諸事物の要素である。 4. また、モナドには分解の惧れはないし、単純な実体が自然的に消滅しうるなどとは、とても考えられない。 5. おなじ理由により、単純な実体が自然的に生じ得るとは、とても考えられない。単純な実体は、複合することによってつくることはできないからである。 6. そこで、モナドは生ずるにせよ滅びるにせよ、一挙になされるしかない、と言える。つまり、創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びるのである。ところが、複合されたものは、一部分ずつ生じ、あるいは滅びる。 7. さらに、どのようにしてモナドがその内部を何か他の被造物により変質され、変化されることがありうるか、ということも説明しようとしても不可能である。モナドには何も移し入れることは出来ないし、モナドの中で内的な運動を引き起こしたり、それを導いたり、増大あるいは減少させたりすることができる、などとは考えられないからである。そういうことが可能なのは部分同士の間で変化がある複合的なものにおいてである。モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない。かつてスコラ哲学者が説いた感性的形象のように、偶有性が実体から外へ離れていったり、さまよい出したりする、というようなことは出来ない。こうして、実体も偶有性も、外からモナドの中に入ることはできないのである。 8. しかし、モナドは何らかの性質を持っているに違いない。さもないと、モナドは存在するものとはいえなくなる。それに、もし、単純実体がその諸性質〔qualités〕によってそれぞれ異なっているのでなければ、事物のうちにどんな変化が起こっても、それに気づくことが出来ないであろう。なぜなら、複合的なものの中に起こることは、単純な要素からしかこないからである。そして、もし、モナドが性質をもたないとすると、そもそもモナドは量の点については差異がないのだから、お互いに区別がつかなくなる。したがって、充実〔した空間〕を仮定すると、運動においてはどの位置も、つねに今までもっていたのと等しいものしか受け取らないことになるから、物の状態は他の状態から識別できなくなってしまう。 9. おのおののモナドは他のすべてのモナドと異なっていなければならない。というのは、自然においては、二つの存在するものがお互いにまったく同じで、内的〔interne〕差異、すなわち内在的〔intrinsèque〕規定に基づく差異がないということはありえないからである。 10. すべての創造された存在するものは変化を受ける。したがって、創造されたモナドもまた変化を受け、しかもその変化はおのおのモナドのなかで連続的〔continuel〕である。これらのことは誰しもが同意しているものと私は考える。 11. これまで述べてきたことから、各モナドの自然な諸々の変化は内的な〔interne〕原理に由来する。なぜなら、外的な〔externe〕原因はモナドの内部に影響を及ぼすことはできないからである。 12. しかしさらに、変化の原理の他に、変化するある細部〔具体的な内容〕があって、これが、いわば単純実体に、特殊化〔細部の特性〕と多様性とを与えているのでなくてはならない。 13. この細部は、一、あるいは単純なもののなかに多を含むのでなければならない。なぜなら、あらゆる自然な変化は徐々に行なわれ、あるものは変化し、あるものは変わらないからである。したがって、単純実体に部分はないが、多様な変化する状態〔affections〕や関係が必ずあることになる。 14. 一、すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を再現前している移ろいゆく状態、それがいわゆる表象〔perception〕に他ならない。あとで明らかになるが、表象は統覚〔aperception〕つまり意識とは区別されねばならない。この点、デカルト派の人たちは大きな誤りをおかして、意識されない表象など無いものと考えた。そのために、彼らは精神だけがモナドであって、動物の魂とかその他のエンテレケイアとかは存在しないと思い込み、俗見にしたがって長い失神状態と厳密な意味での死とを混同した。そこで彼らは、完全に分配された魂というスコラ学者の偏見にふたたび陥って、ねじけた心の持ち主に魂の死滅説を固く信じさせることにさえなったのである。 15. 一つの表象から他の表象への変化や推移を引き起こす内的原理のはたらきを、欲求( appétiton )と名づけることができる。もちろん、欲求のはたらき( appétit )が、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。しかし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。 16. われわれの意識する思考がどんなに僅少なものであっても、対象の中にある多様性を含んでいることに気づくとき、われわれ自身で単純実体の中にある多を経験するのである。そこで魂が単純実体であることを認める限り、誰でもモナドの中にこうした多があることを認めなくてはならない。この点について、ベール氏が彼の『辞典』の「ロラリウス」の項で述べているような難点に出会うことはなかったはずである。 17. それはそうと、言っておかねばならないのは、表象も表象に依存しているものも機械的な理由によっては説明できない、すなわち形と運動からは説明できない、ということである。いま仮に、考えたり感じたり表象をもったりできる仕組みをもった機械があるとしよう。その機械が同じ釣合いを保ちながら大きくなり、風車小屋に入るようにそこにはいれるようになった、と考えてみよう。そこでそう仮定して、その中にはいってみたとき、見えるものといってはいろんな部分がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りるものは決して見出せないだろう。そこで、表象を求むべきところは単純実体の中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに単純実体の中に見出すことができるのは、それのみすなわち表象とその変化のみである。また、それのみが単純実体の内的作用のすべてなのである。 18. すべての単純実体、つまり創造されたモナドには、エンテレケイアという名前を与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている(εχουσι το εντελεζ)からである。モナドには自足性(αυταρκεια)があって、そのためにモナドは自分自身の内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械となっているのである。 19. いま説明したような広い意味での表象と欲求をもつものすべてを、魂と呼ぶことにすると、単純実体すなわち創造されたモナドは、すべて魂と呼ぶことができよう。しかし、知覚〔sentiment〕は単なる表象以上のものであるから、表象だけしかもっていない単純実体には、モナドとかエンテレケイアという一般的な名称で十分である。もっと判明な表象をもちかつ記憶を伴っているモナドだけを、魂と呼ぶことにしたいと思う。 20. というのは、われわれは何も覚えていない状態、際立った表象をすこしももたない状態をわれわれ自身の中で経験する。たとえば気絶したときとか、夢さえ見ないような深い眠りに入った場合である。こんな状態のときには、魂と単なるモナドとは目立つほどの違いはない。しかしこの状態は長く続かず、魂はそれから抜け出してくるので、魂は単なるモナド以上のものということになる。 21 しかしそうだとしても、単純実体には表象がまったくないということにはならない。それは前に述べた理由によってもありえないのである。なぜなら、単純実体は消滅することはできないし、存続しているからには、何か変化する状態を伴っているが、これこそ表象に他ならないからである。しかし、微小表象〔petites perceptions〕がどれほど多くあっても際立った表象がないときには、ひとは茫然とした状態にある。たとえば、たてつづけに何度も同じ方向に廻ると、目が廻って気が遠くなり、すこしも物事の見分けがつかなくなるようなものである。死は、動物をしばらくこの状態におくことがある。 22. ところで、単純実体においては、現在の状態はいずれもそれに先立つ状態から自然的に出てきた結果であり、したがってここでは現在は未来をはらんでいることになるから、 23. そこで、気絶状態から目ざめたとき自分の表象を意識するのだから、たとえ意識していなくても、目ざめる直前にも表象をもっていた、としなくてはならない。というのは、表象は自然的には他の表象からしか出てこられないからである。運動が自然的には別の運動からしか出てこられないのと同じである。 24. ここからわかるように、もしわれわれの表象の中に、くっきりと際立ったいわば引き立っているところ、ひときわ高い好みなどがすこしもなかったら、われわれはいつまでも気絶、茫然自失の状態にとどまっていることになるだろう。これがまったく裸のモナドである。 25. さらにわかることは、自然が動物に引き立った表象を与えたこと、多くの光線や空気の振動を集めそれらを結びつけて、効果をいっそう大きくするためのいくつかの器官を動物にそなえさせる、という配慮をしていることである。嗅覚、味覚、触覚、そして恐らくわれわれの知らない他の多くの感覚においても、事情は似ているところがある。そして、魂の中で起こることが、諸器官の中で起こることをどのように表現するかは、あとで説明することにしよう。 26. 記憶〔mémoire〕は魂に一種の連絡作用〔consécution〕を与える。これは理性に似てはいるが、理性とは区別されなくてはならない。動物において見られるように、強い衝撃を与えるものの表象をもち、さらに以前にも同じような衝撃を与えたことのあったものの表象をもったとき、動物は記憶の表現作用によって、この以前の表象の中でそれに結びついていることが起こることを予期し、そのときにもったのと同じような感覚〔sentiment〕をもつようになる。たとえば、犬に棒を見せると、棒から受けた苦痛を思い出して鳴きながら逃げてゆく。 27. 動物に打撃を与え深く揺さぶる強い想像力は、以前もった表象の大きさやその数の多さに由来する。実際、強い印象が、長いあいだの習慣とか弱くても何度も繰り返された多くの表象〔perceptions médiocres réitérées〕と同じ効果を一挙に揚げることは、よくあることである。 28. 人間といえども、表象間の連結がただ記憶の原理によってのみなされているあいだは、動物と同じような行動をしており、この点理論抜きでただ実地の体験を積んだ経験派の医者に似ている。じつはわれわれの行動の四分の三は、経験派的なものでしかない。たとえば、明日も夜が明けるだろうと予期するのは、いままでそうだったからという経験派的な振舞いである。このことに理性によって判断を下すのは、ただ天文学者のみである。 29. しかし、われわれは必然的かつ永遠の真理を認識しており、この点で単なる動物から区別され、理性と知識〔les sciences〕をもつのである。われわれは高められて、自己自身を知り神を知るにいたる。そして、これこそわれわれの中にある理性的な魂、すなわち精神と呼ばれるものである。 30. さらにわれわれは、必然的な諸真理〔vérités nécessaires〕の認識と真理を抽象する作用とによって、反省という行為〔actes réflexifs〕にまで高められる。この行為が自我と呼ばれるものを考えさせ、これとかあれとかがわれわれの中にあることを考察させる。このようにして、われわれは自分自身を考えることによって、存在、実体、単純なものと複合されたもの、非物質的なもの、さらに神そのものを考えるようになる。それは、われわれにおいては制限されているものが、神においては制限がないということを理解するからである。つまり、このような反省という行為がわれわれの思想のはたらき〔raisonnements〕の主要な対象を与えてくれるのである。 31. われわれの思考のはたらき(raisonnements)は二つの大原理に基づいている。その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを偽(faux)と判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真(vrai)と判断する。 32. もう一つの原理は十分な理由の原理で、これによってわれわれは、事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、いかなる事実も真(vrai)であることあるいは存在することができず、またいかなる命題(énonciation)も真実である(véritable)ことはできない、と考えるのである。もっともこのような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないけれど。 33. 真理(vérités)にも二種類ある。思考(raisonnement)の真理と事実(fait)の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的(contingentes)でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、その理由を分析(analyse)によって見つけることができる。すなわちその真理をもっと単純な観念や真理に分解していって(résoudre)、最後に原始的な観念や真理にまで到達するのである。 34. そこで、数学者の場合についていうと、理論上の定理〔théorèmes〕も応用上の規範〔canons〕も、分析によって定義や公理〔axiomes〕や公準〔demandes〕に還元される。 35. そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。また、証明することができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理がある。これらは自同的命題〔énonciations identiques〕で、その反対は明白な矛盾を含んでいる。 36. しかし、偶然的真理すなわち事実の真理の中にも十分な理由がなくてはならない。つまり被造物の世界にあまねく行き渡った事物(choses)の関連のうちにも、十分な理由がなくてはならない。この場合、自然の事物が極めて多様であり物体(corps)は、無限に分割されているから、個々の理由に分解してゆくと限りなく細部に到ることになる。過去現在の形や運動が無数にあって、それらがいま私の書いていることの作用因(cause efficiente)をなしている。また、私の魂にある現在や過去の無数の微小な傾向(inclinations)や気持ち(dispositions)は、つきつめれば究極的な原因〔cause finale〕にまで至る 37. ところで、どのこうした細部にも、それに先立つあるいはより細微な偶然的要素のみが含まれていて、その要素のそれぞれに理由を与えるためには同じような分析がまた必要となってくる。だからいくらやっても、少しも進んだことにはならない。そこで、十分な理由すなわち最後の理由(la raison suffisante oudernière)は、偶然的要素のこうした細部がたとえどれほど無限でありえても、やはり細部の関連つまり系列の外にある、としなくてはならない。 38. そうすると、事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としなくてはならない。この実体の中にはさまざまな変化の細部が、あたかもその源泉の中にあるごとくただ卓越的に(éminemment)存している。その実体こそわれわれが神と呼ぶものなのである。 39. さて、この実体はすべてのこうした細部の十分な理由であり、またこの細部はいたるところでたがいに連関しているので、神は一つしかない、かつこの神だけで十分である。 40. さらに次のようにも考えられる。この最高の実体は、唯一の、普遍的な必然的な実体で、それに依存しないものは他に一つもなく、また可能的存在からの単純な帰結であるのだから、この実体には限界などありえず、可能なかぎり多くの実在性〔réalités〕が含まれているのでなくてはならない。 41. そこから神は絶対的に完全であるということになる。完全性〔perfection〕とは、事物のもつ限界や制限を除き去って、厳密な意味に解された積極的実在性の大きさに他ならない。そこで限界のないところ、つまり神においては完全性は絶対的に無限である。 42. さらにそこから、被造物の完全性は神のはたらきに由来するが、その不完全性は限界なしであることができない被造物の固有の本性から得る、ということになる。被造物が神から区別されるのは、まさにこの点なのだからである。 43. 神が存在するものの源泉であるばかりでなく、本質の源泉でもあることは確かである。ここでの本質とは、実在的な本質あるいは可能性の中にある実在的なもののことである。なぜなら、神の悟性は、永遠真理とか永遠真理のもととなっている観念が存する領域だからであり、もし神がなければ、可能性の中の実在的なものは何もなくなり、現実に存在するものだけでなく、可能的なものさえなくなってしまうからである。 44. というのは、本質すなわち可能性の中に、あるいは永遠真理の中にも実在性があるならば、この実在性は何か現に存在しているもの、現実的なものに基づいていなければならない。したがって、本質が現実存在を含んでいるような、すなわち現実的であるためには可能的でありさえすればよいような必然的な存在が現に存在していることに基づいていなくてはならない。 45. そこで神(すなわち必然的存在)のみが、可能的であれば必ず現に存在するという特権をもっている。制限も否定も含まず、したがって矛盾を含まないものの可能性を妨げるものはないから、このことだけで神の存在をア・プリオリに知るのに十分である。われわれは、神の存在を永遠真理の実在性によっても証明したことになる。 しかし、われわれはさきほど、この証明をア・ポステリオリにもしている。つまり、偶然的なものは現に存在しているが、それの最後の理由つまり十分な理由を必然的な存在の中にしかもつことはできない。だがこの必然的な存在は自分自身の中にその存在の理由をもっているからである。 #
by yojisekimoto
| 2013-10-15 09:38
| ライプニッツ
46. しかし、一部の人びとのように、永遠真理は神に依存しているから恣意的なものであり神の意志に拠るものである、などと想像してはならない。デカルト、そして彼のあとポワレ氏がそう考えたらしい。けれどもこのことは偶然的真理についてしか当てはまらない。偶然的真理の原理は、適合すなわち最善なものの選択(la convenance ou le choix du meilleur)ということである。ところが、必然的真理は、もっぱら神の悟性(entendement)に依存しておりその内的対象となっているのである。 47. そこで、神だけが原初的な「一」つまり本源的な単純実体であり(Dieu seul est l'unité primitive ou la substance simple originaire)、創造されたモナド、すなわち派生的なモナドは、すべてその生産物なのである。これらのモナドは、いわば神(la Divinité) の絶え間ない閃光放射(des fulgurations continuelles)によって刻々に産み出されてくるが、本性上(essentiel )限定されざるをえない被造物の受容性(la réceptivité)のために制限をうけている。 48. 神の中には、すべてのものの源泉である力(la puissance)と、さまざまな観念の細部を含んでいる認識と、さらに最善という原理にしたがって変化あるいは生産を生じさせる意志とがある。この三つは、創造されたモナドの中にある主体すなわち基礎と、表象の能力と、欲求の能力とに対応している。しかし、神においてはこうした属性は絶対的に無限つまり完全である。そして創造されたモナドつまりエンテレケイア(ヘルモウス・バルバルスの訳語ではペルフェクティハビエス)においては、その完全性の度合に応じてそれらの属性の模倣があるに過ぎない。 49. 被造物は、完全性をもっているかぎり外部に能動的に作用をおよぼすといわれ、不完全であるかぎり他の被造物から受動的に作用をこうむるといわれる。そこで、モナドが判明な表象をもつかぎりそれに能動作用を認め、混雑した表象をもつかぎり受動作用を認めるのである。 50. ある被造物の中に、他の被造物に起こることの理由をア・プリオリに示すのに役立つものがあれば、その被造物は他の被造物よりも完全である。一方が他方に作用を及ぼすというのは、こうした意味なのである。 51. しかし、単純実体の場合、あるモナドは他のモナドに観念的な影響をおよぼすだけであり、これも神の仲介によらなくては効果をもつことはできない。そのときモナドにできることは、神のもっている諸観念の中で、神が万物の始め以来他のモナドを規制していくに際して自分のことも考慮してほしい、と正当な要求をすることだけである。なぜなら、創造されたモナドは他のモナドの内部に物理的な影響をおよぼすことはできないので、一方が他方と依存関係をもつためには、この方法によるしかないからである。 52. そういうわけで、被造物のあいだの能動作用と受動作用とは相互的である。つまり、神が二つの単純実体を比較したとき、それぞれの中に一方を他方に適応させざるをえない理由を見出すのである。そこで、ある点では能動的なものも、別の観点から見ると受動的である。あるものにおいて判明に知られるものが、他のものの中で起こることの理由を示すのに役立っているかぎり、それは能動的であり、あるものにおいて起こることの理由が他のものの中で判明に知られているものの中にあるかぎり、それは受動的である。 53. ところで、神の持つ観念の中には無限に多くの可能的宇宙(univers possibles)があり、かつ宇宙はただ一つしか存在できないのだから、神に他の宇宙でなくこの宇宙を決定させる、神の選択の十分な理由があったはずだ。 54. そしてこの理由は適合(convenance)ということの中に、あるいはこれらの世界が含んでいる完全性の度合の中にしか見出せない。可能的なものはそれぞれが内包している完全性に応じて現実存在を要求する権利(droit de prétendre à l'existence)を持っているからだ。 55. これが、最善なるもの(le meilleur)の現実存在の原因であって、神はその知恵によって最善なるものを知り、その善意によってこれを選び、その力によってこれを生む。 56. ところで、すべての被造物がそれぞれの被造物と、またそれぞれが他の被造物との間に持つこの連結(liaison)あるいは適応(accommodement)によって、どの単純実体も他のすべての実体を表出するさまざまな関係をもち、したがって宇宙を映す永遠の生きた鏡なのである。 57. 同じ都市でも、異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え、観点(=パースペクティブ)によって多様であるようだが、それと同様に、単純実体は無限にあるので、その数だけの異なった宇宙が存在することになる。ただしそれらは、それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙のさまざまな眺望に他ならない。 58. そしてこれが、可能な限り多くの多様性を、しかもできる限り偉大な(最大の)秩序とともに得る方法なのである。つまり、できる限り多くの完全性を得る方法なのである。 59. それゆえ、神の偉大さをそれにふさわしい仕方で称揚するものは、この仮説(あえて言うがすでに証明済みである)以外にない。このことはベール氏も認めたのだが、その辞典のロラリウスの項においては、私が神に、あまりに多くを、可能以上のことを託そうとしていると言わんばかりの異議が見られる。しかし、この普遍的な調和(cette harmonie universelle)、すべての実体が、他のすべての実体を自分との関係にしたがって厳密に表現するようにしむける普遍的な調和が、なぜ不可能なのかというどんな理由も、ベール氏は挙げることはできなかったのである。である 60. しかし私が述べてきたことから、なぜそれぞれの事態が他ではありえないかの、アプリオリなそれぞれの理由がわかる。なぜなら神は全体を決定しつつ(enréglant le tout)、各部分、特に各モナドを考慮しているからであり、モナドの本性は表現的(représentative)なので、何ものもそれを制限して事物の一部分しか表現しないようにはできないからである。ただし、この表現は宇宙全体の細部では混雑している他なく、判明なのは事物のごく一部分、すなわち各モナドとの関係で、最も近いもの、あるいは最も大きいものにおいてでしかありえない。さもないと各モナドは神的なもの(une divinité)になってしまうだろう。モナドが制限を受けるのは、その対象においてではなく、対象の認識の変容(la modification de la connaissance de l'objet) においてである。モナドはすべて混雑したかたちで無限へ向かい、全体へ向かうが、それらは制限されており、表象(perceptions)の判明さの度合によって区別されている。 61. そしてこの点において、複合体は単純体と一致している(symboliser)。というのも、すべてが充実している(tout est plein)ので、あらゆる物質(質料 matière)は結びつき合っているし、充実体(le plein)の中で、すべての運動はへだたった物体(les corps)に、距離に応じて何らかの効果を及ぼすからである。そこでどの物体もそれに接触しているものから影響を受け、そのものに起こるすべてを何らかの仕方で感知するばかりでなく、自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体を感知するのである。その結果、このような交感(communication)はどんな遠いところにも及んで行くことになる。そこで、どの物体も宇宙の中で起こることをすべて感知するから、何でも見える人がいれば、どの物体の中にもあらゆる所でいま起こっていることだけではなく、いままでに起こったことやこれから起こるであろうことさえ読み取ることができるだろう。時間的、空間的に遠く離れているものを、現在の中に見出すことによって。「スベテガ共ニ呼吸シテイル」とヒポクラテスは言った。しかし、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞( replis)を一挙にすっかり開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである。 62. そこで、創造されたモナドはいずれも宇宙全体を表現しているが、そのモナドに特別に付与されていて(lui est affecté particulièrement)、そのモナドを自分のエンテレケイア(現勢化力 entéléchie)にしている物体(身体 corps)をより判明に表象する。充実体(le plein)の中ではすべての物質(質料 matière)が結び合っているから、この物体(身体)は宇宙全体を表現するが、魂もまた特別の仕方で自分に属している(lui appartient d'une manière particulière)物体(身体)を表現することによって、宇宙全体を表現するのである 63. あるモナドに属していて、そのモナドを自分のエンテレケイアあるいは魂としている物体は、エンテレケイアと一緒になって生物と名づけ得るものを構成し、魂と一緒になって動物と名づけ得るものを構成する。ところで、この生物あるいは動物の身体はいつも有機的(organique)である。どのモナドも自分の様態で(à sa mode)宇宙を映す鏡であり、宇宙は完全な秩序において統制されている(étant réglé dans un ordre parfait)から、それを表現するもの(le représentant)の中にも、つまり魂のもろもろの表象(les perceptions de l'âme)の中にも、したがってそれによって宇宙が魂に表現される身体の中にも(dans le corps, suivant lequel l'univers y est représenté)、一つの秩序(un ordre)があるはずである。 64. だから、生物の有機的な身体は、いずれもある種の神的な機械あるいは自然的な自動機械なのであって、どんな人工的な自動機械よりも無限にすぐれている。人間の技術によって作られた機械は、そのそれぞれの部分までは機械になっていない。たとえば真鍮の歯車の場合、その部分とか断片とかはもうわれわれには人工的なものとは見えず、その歯車の本来の用途から考えてもはや機械らしいところは何も示していない。ところが自然の機械つまり生物の身体は、それを無限に分割していってどんなに小さい部分になっても、やはり機械になっている。これが自然と技術、つまり神のわざと人間のわざとの違いである。 65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべき(merveilleux)わざ(artifice)をふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が可能であるばかりでなく、各部分は実際に(actuellement)さらに多くの部分へと限りなく細分されていて(sous-divisée)、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなければ、物質の各部分(chaque portion de la matière)が宇宙を表出することは不可能であろう。 66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、魂の世界が認められる。 67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることができる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり同じような庭であり池なのである。 68. そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚ではないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、ほとんどの場合われわれには見えない。 69. そこで宇宙の中には荒れ果てたところや不毛なところ、死せるところはまったくなく、混沌も混雑もない。ただそういう見かけがあるだけである。少し離れて池を見ると、池の魚そのものをはっきり見分けることはできず、魚の混雑した運動、いわばそれらのうごめきが見える、というようなものだ。 70. そこで、どの生物の身体もそれを支配するエンテレケイア(une entéléchie dominante=現勢化力としてのモナド)をもち、動物ではそれが魂であることがわかる。ただこの生物のどの肢にも他の生物、植物、動物が満ちていて、そのそれぞれがまた、それを支配するエンテレケイアとか魂(son entéléchie ou son âme dominante)をもっている。 71. しかし、ある人たちのように私の考えを誤解して、どの魂にもそれに固有な、つまりそれに割りあてられている物質のかたまりや部分があり、したがっていつも自分の役に立つように定められて他の下等な生物をもっている、などと考えてはいけない。すべての物体は川のように永遠の流動状態にあり、その部分はたえずそこに入ったり出たりしているからである。 72. というわけで魂は、自分の体をとりかえるのに、かならず徐々に、まただんだんにおこなうから、その全器官をいっぺんに失うことはけっしてない。動物の場合、変態はめずらしくないが、生まれかわり(メタンプシコーズ)(=死後にも魂は存続し、ふたたび別の身体にはいるという説)、つまり魂の転生は断じてない。また、体とまったく[切りはなされた魂]とか、体のない精霊などというものはない。ただ神だけが、肉体から完全に解きはなたれている。 73. だからまた、完全な新生もないわけだし、厳密な意味での完全な死、つまり魂が体から離れるところに成りたっている死もないのである。ふつう発生と呼んでいるのは、「外へひろがること」であり、増大のことであるにすぎない。死といっているものも、「内へすぼまること」であり、減少のことであるにすぎない。 74. 形相、エンテレケイア、あるいは魂の起源について、哲学者たちは おおいに困惑してきた。しかし今では植物、昆虫、動物について精密な 研究がなされて、自然の有機体は混沌や腐敗から生み出されるものでは けっしてなく、いつも種子から、つまり何らかの予先形成(préformation) を必ず含んでいる種子から生み出される、ということが知られている。 そこで種子の中には、受精以前にすでに有機体ばかりでなく、その体内にある 魂、一言でいえば動物それ自身が存していて、受精作用はこの動物が別種の 動物になるために大きな変形を受けるための準備にすぎない、と考えられている。 発生以外にも、似たようなことはウジがハエになったり、毛虫が蝶になったり するときに見られる。 75. 動物のうちには、受精によってさらに大きい動物の段階にまで達するものがあり、それらを精子的動物(spermatiques)と呼ぶこともできる。しかしそれらのうちで、もとと同じ種にとどまっているもの、つまりその大半は、大きい動物と同じように生まれ、殖え、滅びてしまい、もっと大きい舞台に移ってゆくのは、選ばれた少数のものにすぎない。 76. しかし、これは真理の反面にすぎない。私の考えによると、もし動物が自然的に存在し始めるということが決してないなら、自然的に滅びることもなく、どのような発生もないばかりでなく、完全な破壊も、厳密な意味での死もありえない。この推論はアポステリオリになされ、経験から導き出されているが、これは初めにアプリオリに演繹された私の原理と完全に一致する。 77. そこで魂、滅びることのない宇宙の鏡ばかりでなく、動物そのものでさえ不滅であることになる。もっともその(身体である)機械は、しばしば部分的に滅びたり、有機的な殻を脱いだり着けたりすることはあるけれども。 78. これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合(l'union)あるいは一致(la conformité )について、自然的に説明する方法を得たのである。魂はみずからの法則(lois)にしたがい、身体もまたみずからの法則にしたがいつつ、あらゆる実体のあいだに存する予定調和(l'harmonie préétablie )のおかげで両者は一致する(se rencontrer)。 なぜならすべての実体は、同じ一つの宇宙の表現なのだがら。 79. 魂は目的原因の法則(les lois des causes finales )にしたがい、欲求や目的や手段によってふるまう。物体(身体)は作用原因(実現原因)の法則あるいは運動の法則(les lois des causes efficientes ou des mouvements)にしたがってふるまう。そしてこの二つの世界(règne)、 作用原因(実現原因)のそれと目的原因のそれとは互いに調和している。 80. デカルトは、物質の中にはつねに同一量の力があることから、魂が物体に力をあたえることはできないことを認めた。けれども魂は物体の方向を変えることができると信じていた。しかしこれは、彼の時代には、物質において方向も全体としては同一に保存されるという自然法則がまだ知られていなかったからである。もしデカルトがこれに気づいていたら、私の予定調和説をとることになったであろう。 81. この説によると、物体(身体)は魂がないかのように(ありえないことだが)ふるまい、魂は物体(身体)がないかのようにふるまう。しかも両者は、互いに影響を与え合っているかのようにふるまうのである。 82. 精神あるいは理性的な魂についていえば、すでに述べたように、動物も魂も世界とともにしか始まらず、世界とともにしか終わらないということは、すべての生物や動物について結局同じであることを私は認めるけれども、理性的動物にはやはり特別なところがあって、それが持っている微小な精子的動物は、精子的動物である限りただ普通の魂あるいは感覚的な魂しかもっていないが、そのうちのいわば選ばれたものが、実際の受精によって人間の本性に到達すると、その感覚的な魂は高められて理性の段階、つまり精神という特権に達するのである。 83. 普通の魂と精神とのあいだの他のさまざまな差異(その一部についてはすでに指摘した)の中には、さらに次のようなものがある。一般に魂は、被造物の宇宙の生きた鏡あるいはその像(images 河野訳「姿」、工作舎訳「似姿」)であるが、精神はその上に、神そのもの(la Divinité même)、自然の創造者そのものの像でもある。そこで宇宙の大系を知ることも、 自分のもっている建築術の片鱗(échantillons 見本、サンプル) によって宇宙のいくらかを真似ることもできるから、どの精神も自分の 領域における小さな神(une petite divinité dans son département) のようなものである。 84. このことによって、精神は神とのある種の交際関係(société)に入ることができるとともに、神が精神に対する関係は、発明家の機械に対する関係(神が精神以外の被造物に対する関係がそうであるのと同じく)にとどまらず、君主と臣下、むしろ父と子の関係なのである。 85. そこから容易に、すべての精神の集合は、神の国(la cité de Dieu)、すなわち最も完全な君主のもとにある、できる限り完全な国家をつくっていなければならないという結論が生じる。 86. この神の国、この真に普遍的な王国こそ、自然の世界の中にある道徳的世界であり、神の作品のうちで最も崇高、最も神的なものであって、神の栄光が真に存するところである。もし神の偉大さと善意とが精神によって認められ賞賛されなければ、神の栄光はありえないからである。さらに、神の知恵や神の力はいたるところにあらわれているが、神が本当に善意をもっているのは、この神の国に対してである。 87. さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家として考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神とのあいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。 88. この調和によって、事物はまさに自然の道を経て恩寵にまで導かれる。たとえば、この地球は精神に対する統治がそれを要求するたびに、あるものを罰し、あるものを賞するために、自然的な道によって破壊されたり修復されたりすることになる。 89. さらに次のように言える。建築家としての神は、すべての点で立法者としての神を満足させる。そこで、罪は自然の秩序によって、さらには事物の機械的な構造によって、自分の罰を担わなければならない。同じように、美しい行ないも、身体に関わる機械的な道によって、その報償を得るのである。もっともこれは、いつでもすぐに起こるとは限らないし、起こるべきであるとも言えない。 90. 最後に、この完全な統治のもとでは報償のない善行はなく、罰のない悪行もない。善い人々にとって、すべてが幸福な結果をもたらすに違いない。善い人々とは、この偉大な国にあって不満をいだくことなく、自分の義務を果したあとは神の摂理(Providence)を信頼し、すべての善の作者をこよなく愛しかつ模倣し、自分の愛する者の幸福を見て喜ぶという真の純粋な愛の本性にしたがって、神のもつさまざまの完全性を眺めて楽しんでいる(se plaisant dans la considération de ses perfections)人々のことである。こうしたところから、賢明で有徳な人々は、推測により知られる神の先行意志にかなうと思われることをすべて実行するとともに、他方では神の秘められた、帰結的かつ決定的な意志によって実際に起こることに満足する。彼らはこのとき次のように考えている。われわれに宇宙の秩序が十分に理解できれば、その秩序はもっとも賢明な人たちが抱くいかなる願いより優れていて、それを現在の状態よりもっとよくすることはできない、ということがわかるだろう、と。このことは全体について一般的に言われるだけではない。われわれが万物の作者に対して、建築家つまりわれわれの存在の作用原因(実現原因)としてだけでなく、われわれの主君つまりわれわれの意志の全目標たるべき目的原因、それのみが人間の幸福をもたらすことができる目的原因として、しかるべく結びついているときには、われわれ自身について個別的にもそう言えるのである。 #
by yojisekimoto
| 2013-10-15 09:36
| ライプニッツ
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プロフィール
横浜在住。ナマケモノ倶楽部、TCX会員。参加している地域通貨は、Q(ID名は6463749)、三鷹seeds、鴨川安房マネー、多摩COMO、千姫プロジェクト(IDは「ヨウジ」)、千葉ピーナッツ、ccsp各種(IDはyojisekimoto)です。
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